「食」のメディアリテラシー~食品をめぐる「常識=神話」を超えて
第26回開発教育全国研究集会(08年8月23・24日 NPO法人開発教育協会主催)の分科会の1つをかながわ国際交流財団とともに企画・進行しました。ゲストスピーカーの松永和紀氏(近著「メディア・バイアス」光文社新書・面白い!)の基調講演に参加者は多くの刺激をうけました。以下、簡単な報告です。
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第26回開発教育全国研究集会(08年8月23・24日 NPO法人開発教育協会主催)の分科会の1つをかながわ国際交流財団とともに企画・進行しました。ゲストスピーカーの松永和紀氏(近著「メディア・バイアス」光文社新書・面白い!)の基調講演に参加者は多くの刺激をうけました。以下、簡単な報告です。
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3月21日(祝)、久しぶりに春めいた休日の午後、武蔵工業大学環境情報学部のメディアセンター講義室で「メディア・リテラシーの学校」春季講習2007が行われた。
「境界線」をキイワードに、社会学者という覆面レスラー的理論家と対話プロジェクトという超実践家集団とが同じ場で語るという、他ではあまり見られないであろう組み合わせが、もどかしいようでいてもどかしくない、もどかしくないようでいてもどかしいというような面白いものを醸し出した会になった。
■1時間目 「境界線を疑うための社会学」
講師:鈴木弘輝氏
鈴木氏が例示した、現代におけるさまざまな「境界(線)」のうち、「学校の境界」は、改めて文字にしてスクリーンに大写しになるのを見ると、何だか興奮してしまうものがある。
学校に入学できる/できない 授業に出席できる/できない 授業に遅刻した/しない 服装や外見の自由/不自由 などなど。
この興奮は、この感情は何かと言えば、「学校の中ではこんな境界線が、21世紀の今もまだ(自分が生徒だったときとまったく同様に)在るというのに、しかし、学校の外と内を分ける境界線はものすごく違ったところに引かれてるみたいだ」という気付きから来ている。(たぶん)
かつて高校生がよく言っていた「学校つまんない」という言葉は、今小学2年生が口にしているらしい。それは「学校の境界線」が動揺していることと関わっているのではないかと鈴木氏は言い、ケータイの普及を見るまでもなく、学校が「知識」を独占出来なくなったことは、誰しもが感じているだろうし、私も確かに日々実感しているのだった。だからこそ、「学校の境界線」の引き直しが起こっているはずだ。学校が「境界線を引く」側にではなく、学校が「境界線を引かれる」側にされている という指摘には深く頷かざるを得ない。
「学校は一番遅れたメディアだ」と誰かが発言していたが、学校が様々な場面での規範・制度・社会的前提に「適応」していれば問題なく生活できる と誰もが信じることが出来た時代感たっぷりのメディアであることは間違いない。「適応」だけではもはや現代を生き抜けない。「適応」を強いる状況に対して、その前提とは違う「別の有り様の可能性」を探ろうとする意識、すなわち「適応力」が求められるというのが鈴木氏の指摘だ。
さらには、「適応」と「適応力」の間にある境界線を意識化するだけではなく、どこまでが「適応」の範囲でどこまでが「適応力」の範囲なのかを冷静な理性で(感情的にではなく)見ていくことが必要だということなのだろう。そこにある境界線は常に引き直されるのだ。
■2時間目 「手作り生中継!教室で異文化対話」
講師:小川直美氏
小川さんの話もそこそこに、早速ラオスのヴィエンチャンにある「ラオスのこども」事務局の1階子ども図書室でスタンバイしている面々と、自己紹介からやりとりが始まった。
ラオス側は、予定していたより沢山の5名程が参加。こちらからは3人がラオスと話す。情報の教師と大学院生と、読書教育が話題になるというので司書。参加していた学校司書3人から1人を選ぶためにじゃんけんをする。もっとも、後になるにつれて、質問したい事がある人がどんどん参入したのだったが。
あちらにも日本語の流暢な通訳の方がいて、こちらにも藤野さんというラオス語の流暢な通訳とコーディネーターの「ラオスの子ども」の森さんがいて、万全の体制である。
Skype Video というソフトは素晴らしい。考えていたよりずっとスムーズだ。後で会場から、九州とやる会議とカメラの感じは同じだという意見と、逆に、アメリカとだともっとずっとスムーズで早いが、ラオスのネット状況はどんな感じなのかという質問とが出されていた。どの国ということなのか、どの場所のどの機材という問題なのかはわからなかった。やりとりは、「メディアとこども」「読書とこども」というおおまかなテーマに沿ってQ&A方式で進められた。以下印象に残ったやりとりをメモしてみる。
ラオスQ:日本人は電車の中で本を読んでいるというが、本当ですか?
日本(大学院生)A:え~?読んでるかな~(会場のあちこちから、マンガだよマンガ、ケータイケーイとうるさくアドヴァイスが飛ぶ) あの、そんなに今は本を読んでいる人はいなくて、ケータイをいじってる人が多いです。ケータイでゲームしたり、メールしたり、インターネットに繋いでいます。
ラオスQ:日本の政府が読書についてやっていることはありますか?
日本(司書)A:読書推進法や文字活字法などが最近上から政策として降りてきてはいる。しかし、強制力があるようなものは無い。
日本(教師)Q:今後ろに本が沢山並んでいるが、子どもに一番人気のある本は何ですか?
ラオスA:(画面に本をかざして見せながら)これです!幽霊が出てきて怖い本。
日本(教師)Q:ハリーポッターは人気がありますか?
ラオスA:ラオス語の本は無い。タイ語や英語で読める大きい子は読む。映画はみんなが観ている。
やりとりの最後にラオスから投げかけられた質問は、「ラオスからラオス語がなくなりかけているがどうしたらいいか?」というものだった。タイ語がテレビでも本でも主流なので、タイ語が中心になっているという現実があるのだそうだ。この難しい質問には、指名されて会場から引っ張り出された鈴木弘輝氏が答えた。「ラオスのものがたり、ことわざ、いいつたえなどをみんなが共有できる言葉にして残していくことが大切だと思います。」
ラオスは社会主義国なのでテレビは国営放送しかなく、つまらないから誰も見ない。みんなタイの番組を見てる。という森さんの説明に、えー社会主義国だったの?知らなかったと会場から驚きの声が挙がっていた。
80分程の時間があっという間で、前もって準備してあったつっこんだ質問項目まで進めないまま終わってしまったのは残念だったが、予定調和でないことこそがライブの醍醐味ということだ。
■3時間目 討議:「学校の境界線を跨いで~メディアとしての学校を考える~」
まず、対話プロジェクトを体験しての感想を述べ合うところから3時間目はスタートした。テーマは「もどかしさ」だ。
□距離的な遠さは感じなかったが、通訳を介すもどかしさを感じた。
□でも通訳のもどかしさより、ニュアンスが伝わらないもどかしさの方がある。同じ「読書」という言葉を使っていても、多分それが喚起するイメージがラオスと日本では違うんじゃないかと感じた。
□ラオスには本が無いから、読書習慣が無い。変化のスピードが速いから本をすっ飛ばして他のメディアに行ってしまうのではないかという状況がある。
□以前アフガニスタンと対話したとき、「平和」 という言葉の使い方が違って伝わってなかったことがあった。アフガンでは「戦争していない状態」という意味だったのに、日本では「安全」という意味で捉えているというような。
□でも準備して臨まないのがいい。もどかしいことのよさもある。
そして、話題は「学校」というメディアの時代遅れさに移っていった。
□今日おもしろかったのはパブリック・アクセスという経験が出来た事。なんだかおもしろいんだよね。この対話みたいなこと、パブリック・アクセスのジャンクションとして学校が在るということが必要なのかと思った。
□かつて「学校の黄金期」には、学校は地域の人が地域の人じゃなくなるところだった。
□それなら、学校図書館はまさに、学校の中で一番外部と繋がるメディアを持っていて生徒が生徒じゃなくなる場所として機能している。
□司書がカリスマセールスマン的に来る人が自分の事を語る場を提供すれば、学校図書館は情報結束点になれる。
□図書館の理念を教える立場として、ずっと「自立的な人間になって民主主義社会を作るのだ」といい続けてきた。そのスローガンはもはや古いのか?古いのではなく、実現が難しいということなのか?
□そのスローガンは今でも支持されていると思う。ただ、それは最低限のラインだ。これからはその先の問題になる。
□教育再生に社会学者が呼ばれない理由は?また、教育再生のキイワードをどう考えるか?
□社会学者は、いわば後だしジャンケン野郎で人気がない(笑)ヒール役、覆面レスラーだ。状況をモニターするのが役目だから建設的な意見を言わない。だから呼ばれない(笑) 教育再生のキイワードは、「感情の発露」「ホンネを語る」「境界線を疑う」だと考える。
□小学校の総合学習を見て、子どもたちが主体的に学ぶとはどういうことかということを研究している。学校にかかわらず、境界を引くものに対しては、日々の実践でもってなし崩しに穴を開けて行く といことしかないんじゃないかと、今日のお話を伺ってますますそう思う。
話し足りないというもどかしさを抱えて、会は予定時間を15分延長して閉会したのだった。
(撮影:小野悦子)
(文責 松田ユリ子)
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「メディアリテラシーの学校:春季講習2007」
ゲストをお呼びしての当研究所主催イベント「メディアリテラシーの学校」も4回目を迎えました。
今回は、社会学者の鈴木弘輝氏と対話プロジェクトの小川直美氏をゲストにお迎えして、「境界線」をキイワードにメディアリテラシーをみなさんとともに考えてみたいと思います。
対話プロジェクトの実践篇として、インターネット回線を使ってラオスとのリアルタイムでの「対話」も行います。そして今回も、質疑応答、意見交換の時間をたっぷりとります。
社会学、開発教育、e-learning、メディア教育、「対話」、「境界線」、そしてメディアリテラシーに関心のあるすべてのみなさまのご来場をお待ちしております。
日時:2007年3月21日(祝・水)午後13時00分~17時
受付12時40分~
場所:武蔵工業大学横浜キャンパス
情報メディアセンター2階 プレゼンテーションラボ(定員130名)
横浜市都筑区牛久保西3-3-1
横浜市営地下鉄 中川駅 徒歩6分
会場までのアクセスはこちら
*お車での来場はご遠慮下さい。
入場無料 予約不要
主催:かながわメディアリテラシー研究所
共催:武蔵工業大学 環境情報学部 中村雅子研究室
後援:(財)神奈川国際交流協会
協力:特定非営利活動法人ラオスのこども
お問い合わせ:かながわメディアリテラシー研究所
kmnpas6@yahoo.co.jp
△ ■ ○ ◎ ■ △ ◎ △ ○ ▲ □ ∵ ◎ ▽ ◎ ▲
「メディアリテラシーの学校:春季講習2007」時間割
■1時間目 13:00~14:20「境界線を疑うための社会学」
講師:鈴木弘輝氏
東京都立大学社会学博士。現代位相研究所所長。
http://homepage2.nifty.com/hirokisu/
2007年度より首都大学東京非常勤講師および朝日カルチャーセンター講師。
N・ルーマンやN・ボルツの議論を参照しながら教育・家族・友人関係における様々なコミュニケーションに注目して研究を進めている。近刊予定である宮台真司氏と堀内進之介氏との共著『幸福論<共生>の不可能と不可否について』(NHKブックス)においても、このうような観点から発言・執筆している。
《内容》グローバル化の進む現代社会において、一人一人のまっとうな「批判」精神を新たに喚起するためには?「境界線」とは?そして「境界線」を疑うとは?など。
社会学的に世の中を眺める方法を指南していただく。
■2時間目 14:30~15:50「手作り生中継!教室で異文化対話」
講師:小川直美氏
対話プロジェクト代表。
対話プロジェクトは、衛星電話・テレビ電話・インターネットなどを使って、遠く離れた国や地域の人々をつなぎ、同時・双方向・対話のコミュニケーションを実現させる活動である。これまで、日本の高校の教室とアフガニスタンやイラクの高校の教室などをつないできた。
《内容》この時間は楽しい実習を予定。東南アジアの国・ラオスの中高生や、現地NGOスタッフとの対話を試みる。
ゲスト:NPO法人ラオスのこども共同代表 森透氏
*時間の関係で、対話は3人程に絞らせていただきます。
*日本語/ラオス語の通訳が入ります。
*ラオスからの参加者は予定です。変更の可能性があります。
*通信事情等により、対話ができないこともあります。
■3時間目 16:00~17:00
討議:「学校の境界線を跨いで~メディアとしての学校を考える~」
「境界線」をキイワードに、学校や教育、メディアリテラシーについて、会場のみなさんとゲストでディスカッションをつくる時間。
△ ■ ○ ◎ ■ △ ◎ △ ○ ▲ □ ∵ ◎ ▽ ◎ ▲
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◆情報量が膨大に流れている現状においては、学生はもちろんのこと社会人においても情報リテラシーの教育は必要であると感じました。情報の受け手側の責任、読解力やメディアに対する危険性(情報操作を含めて)もっと理解をしなければいけない時代ではないでしょうか。
◆現状のカリキュラムではなかなかメディアリテラシーを高校に取り込むのは困難が付きまとうのではないかという思いを持っているので、報告者の方のお話はどれも興味深く聞かせていただきました。感想としては、やはりワークショップを行った後のフォローをどうするかがとても難しいのではないか、ということを感じました。メディアリテラシーは、座学だけで獲得できるものでもないので、口頭での解説でどこまで生徒に伝えていけるかが課題なのかなと思います。私も所属している学生団体でメディアリテラシーに関連したワークショップを企画しているので、今回の報告は大いに参考になりなした。ありがとうございました。
◆それぞれに特長のあるアプローチ方法を用いてメディアという媒体を意識させないメディアリテラシー教育を行っているように感じた。ステレオタイプのメディアリテラシーという概念を取り払った方が教えやすいのかもしれない。
◆非常によかったです。メディアリテラシー教育をめぐる、社会学的、教育学的アプローチの違いについて考えようと思いました。
◆1本目:アメリカのメディアリテラシーの実践という内容は興味もあり面白かったが、個人的には海外の事例ならば、メディアリテラシー先進国のイギリスやカナダの話も聞きたかった。 2本目:「メディアリテラシーをどう教えるか」やワークショップなどは僕の活動とも重なるところがあり、とても参考になった。ワークショップは企画する側と参加する側の共同作業だなと実感した。両方のモチベーションが一致しなければいいものは作れないと思った。 3本目:ドキュメント番組と一緒で、最初カメラを向けられると緊張してうまく演技ができないが、慣れてくるとうまくなるなと思った。照れとか気恥ずかしさをとっぱらわなければいけないというのが印象的だった。
◆批判的メディアリテラシーではなく、創造的メディアリテラシーの実践でよかった。
◆高橋さんの発表は民主主義のスキルをどうのばすのかという点で大変参考になった。鈴木さんの発表は、何を目指す授業なのかよくわからなかった。中沢さんの発表は教育の本質をついていておもしろかった。メディアリテラシー教育の普及は難しいが、それを様々な立場から実現しようとしている人々がいることがわかってうれしかった。
◆様々な声があがってよかったです。
◆おそらくメディアリテラシーが重要だという問題意識を持ってきていると思い、とても有意義だった。具体的に、どう根付かせていくかは議論したかった。
◆いろんな論点が出て勉強になった。もう少し実践例やどうしようもない現状を変える展望が見えるような話ができたらよかった。
◆非常に有意義な場でした。お疲れ様です。
◆多様なリテラシー+シチズンシップ⇒高校での考え方
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報告が大分遅れました。9月の高校現場は体育祭や文化祭や学期末試験で目まぐるしい忙しさです。その目まぐるしさの中開かれた市民メディアサミットでしたが、少々無理してでもkmnpas的「メディアリテラシー教育」に関するセッションを企画してよかったと思いました。東京だけでなく、京都や仙台の大学の学生さんたちを始め、思いの他沢山の方の参加があり、「メディアリテラシー教育」についての関心が巷で高いことがわかったこと、「メディアリテラシー」とは違った視点からの教育、例えば、環境教育、開発教育、情報リテラシー教育などに関心がある方が集まって話してみると、実は目指す地平は結局同じようなところにあるのかなと感じられたこと、そして何より、我々の提示したメディアリテラシー教育が「批判的」メディアリテラシーではなくて「創造的」メディアリテラシーでよかったと言ってくださった参加者が多かったことなどがやってよかったなと思えた理由です。
高橋さん、鈴木さん、中澤さん3人の報告のアウトラインはこちらをごらん下さい。
また、京都三条ラジオカフェさんがセッションの様子を一部ハイチューブでクリップしています。ご覧下さい。
http://yokohama2006.hightube.jp/allmovies.php?date=2006-09-09
報告の後、坂本旬氏(法政大学)と小山紳一郎氏(武蔵大学)にコメンテーターとして加わっていただき、「高校でメディアリテラシー教育をどう教えるか」について議論が行われました。
Q:報告者のみなさんはどの程度生徒に理解させることを目指して実践をしているのか?
「理解する」ことが従来の教育観における「理解」ではまったくないところが難しい。実際鈴木さんの授業のあと「CMのことがよくわかった。これからはちゃんとCMを見ようと思います。」という感想が生徒から寄せられた。「ちゃんと見る」とはどういうことか?という議論をせずには、この生徒が単にCMをよく注意して見るだけの人になろうと本気で決意しているのか、教師が求めていると思った言葉を考えなしに書き連ねて提出しているだけなのかも定かではない。かといって、正しい答えはないことを「理解」させればメディアリテラシーを「理解」したと言っていいのだろうか?「評価」とも絡んだこの問題になかなか答えは出ない。
Q:現場で、カリキュラム上の大筋から外れて実践する上での苦労する点は?
高校の学習指導要領を調べたことのある中澤さんは、メディアリテラシーという表現こそないものの、各教科にそれに類する教育を行えととれる表現が散見されると言う。ただ、現状では教科の中でやるのは中々難しい。総合学習で「メディア学」という科目を立ち上げてやってみたり、自分のように通信制高校で「メディアリテラシー」という科目を立ち上げてやってみたりだ。悩みは継続性が無いこと。せっかく立ち上げても次の年それを立ち上げる余地があるかは神のみぞ知るという状況だ。
Q:CMの授業で相互評価した生徒のコメントが単なる感想のようなものが多いが、「コメント」を上手くフィードバックさせることの出来るために工夫する点は?
「コメント」の中身については我々も議論したことがある。生徒にはコメントするポイントを前もって知らせる工夫が必要だ。良い点を褒めるだけでも、個人的な好みでやみくもに批判することでもない、相互評価としてのコメントができるようになるということは、メディアリテラシーがついた人になるということかもしれない。
Q:映画を作る際に、「スタッフ」と「キャスト」の違いをどうのように考えたか?
Q:自己表現、課題解決に向けて協働する力を育んだり、パブリックアクセスということを教育現場でやるのはとても難しそうだが?
まず、生徒には「キャスト」になってもらう。特に通信制の高校に来る生徒たちの課題は「パブリックアクセス」だ。いかに社会とコミットできるようになるかだ。彼らは何かと「ダダをこねる」。「映りたくない」「やりたくない」などなど。でも、ダダを表面に出してそこからがスタートと言っていい。生徒と映画を作ってみて、まず何よりも、彼らのパブリックアクセスのきっかけになったような気がしている。
第1作と第2作の予告編を観てもらったが、彼らの表情や動きがどんなに変化しているかわかったと思う。第1作では、教師が全面的にスタッフとして脚本からカメラから全部やっていたのが、第2作では共同作業になってきた。現在主演の男子が第3作目のシナリオを書いている最中だ。
議論を経て、坂本氏は今回のセッションで感じたことを次のように述べました。
今日の報告を聴いていわゆるスタンダードなメディアリテラシー教育ではないなと思った。スタンダードというのもなんだが、ありがちなマスメディア批判とかFCT的なというかそういったものではないという意味だ。メディアリテラシーとは何かということを改めて考えさせられた。全体的なものの中でメディアをどう扱うかという問題提起と受け止めた。自分なりの課題は2つある。
1つは、高橋さんの発表の「情報リテラシー」と、「メディアリテラシー」との関係を整理すること。機能的リテラシーとしての「情報リテラシー」も批判的リテラシーの「メディアリテラシー」も何か「情報力」というような大きな捉え方が必要かもしれない
もう一つは、メディアリテラシーと演劇の関係だ。中澤さんの発表にしても、鈴木さんの発表にしても演劇知というものの援用が可能かと思われた。表現する事の意味について考える授業でもある。
続いて小山氏はこう述べました。
日本では、参加型民主主義が土台になった教育になっていない。だから”Know It All”みたいな教材もないし、教材リソースセンターと言った情報交換の場も無い。未だに知識理解の教育が主流でコミュニケーションや自己表現のための教育が行われにくい。
フロアから同様の意見が相次ぎました。
ジャーナリスト氏:アメリカでは図書館にしてもスタートが違う。市民メディアとしてパブリックアクセスのために無くてはならないものとして成立している。だから、マイノリティのためのメディアだし、非常に政治的だ。スェーデンでも図書館が政治と行政のチェック機関だ。翻って、すべてコンセプトがわかりにくい中でやっているのが日本の教育であり図書館であると言える。
県立高校教員氏:「気付くこと」が大きい。民主主義の土台としての批判力にこれを結びつけていくことが出来るといい。
最後にまとめとして・・・
中澤氏:結局はTVの影響ははかりしれない。TVの見方をもう1度見直すことをやる必要がある。
鈴木氏:メディアリテラシーがついた姿とはどういう状態かを明確にイメージしたいと思う。
坂本氏:テレビも大事だが、今一番大きな問題はインターネットだと思う。単純な規制とかモラルとかいうことではなくて、メディアリテラシー教育としてどう取り扱っていくメディアかということを考えるべき時期にきていると思う。
(文責 松田)
・セッションの内容をインタビュー構成でポットキャスティングしています
(提供:ポートサイドステーション)
音声で聴く事後(直後)インタヴュー
http://portside-station.net/portside/blog/ycmc/article/atc00000030
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今週末 9月9日朝9時15分からの我々のセッション「高校でメディアリテラシーをどう教えるか」の会場が変更になりました。
確定した場所は 開港記念館の9号室です。
ではみなさま、当日会場でお会いできるのを楽しみにしています。
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かながわメディアリテラシー研究所のセッション「高校でメディアリテラシーをどう教えるか」の日時と場所が決定しました。
日時:9月9日(土) 9時AM開場 9時15分~11時45分
場所:開港記念館7号室
セッションの詳細は、こちらをごらん下さい。
また、インターネット新聞JANJANに記事を載せました。こちらもご覧下さい。
http://www.janjan.jp/media/0608/0608300319/1.php
みなさま是非いらして下さい。
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新しい!と思った。写真を撮られているのに、撮られていないような、、、
LIVE(生きる)で生まれるArtにふれることができておもしろかった。
現代美術って作家の興味、着目点、感覚、感性とかによってできあがったものと思うんですけど、したがって他人にとっては理解できないものもたまにはあります。社さんの作品も実際体験するまではよくわかりませんでした。だけど、参加することによって作家の意図というものが伝わってきた気がしました。
「回転回LIVE!」でしか感じられないことを感じられたのですごくいい経験になったと思います。
まわると目がまわるとは思いませんでした。ワークショップに参加したのは初めてです。今度は黒い服でない方がいいかも。
貴重な体験ができて面白かったです。
自分が風景の一部になることが新鮮な体験だった。
やっぱり屋代さんは回転の仕方が上手い!初めてワークショップに参加したのですが、楽しかったです。
物体として(回転体として)写真にとられるのは史上初だったので新鮮なキモチです。いままでとられた「自分」というのはただの入れ物なワケで、今日はそこからみなさんハミでちゃったなぁ。と。私たち学生はあぁいったことはしょっちゅうしてますが、今日はインテリな感じのミドルさんたちがはしゃいでいる所も、回転体のチカラなのかなあと思いました。
ぐるぐる回って楽しかった。「自分が絵の具です。」といった屋代さんがかっこよかったです。
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東京都写真美術館で2006年6月24日~7月17日にかけて開催された「キュレーターズ・チョイス」展で同館キュレーターの藤村里美氏、石田哲朗氏のチョイスした作品が収蔵庫から再び出され、参加者の前に並べられた。ざっくばらんに並べられた20点ほどの作品を目前に2時間目のトークが始まった。
「キュレーターズチョイス」展は、同館の23,000点以上の収蔵品、57,000点以上の図書資料から19人(館長1、キュレーター15、ライブラリアン3)が各人のマイチョイスを披露する企画で、日本では初の試みだった。15人のキュレーターが独自の視点・眼力でチョイスした1人10点、合計約150点は事前のキュレーター間の調整を行わずに、1つの重複もなかったという。つまり、それだけ私的な感性、こだわりが生かされている。作品につけられるキャプションにもその人の個性が滲み出ている。写真に限らず、従来型の企画展は、有名だから、巨匠だから、人気があるから、といった理由で組まれることが多い。ものを見せる側、見る側のもたれあいである。とくに日本の場合、みんながいいと言っているから見に行く物見遊山者が多い。主催者からすれば、大きなキャンペーンをしないと集客できないというちょっと寂しい状況がある。
今回の企画は「巨匠だから選んだ」といったものの見せ方はひとつもない。もちろん巨匠の作品も多いのだが、「なぜこれが巨匠と呼ばれるのか」といったところの根源的なつぶやき、とまどいからキュレーションが出発していることが提示されている。「ものを***に見るべき」の否定から始まっている。 「これは写真なのか?ピグメント印画法の写真と初めて出会った時に、頭の中に浮かんだの は大きな疑問符だった。」 藤村里美氏の今回のキュレーション前口上(「出品リスト」より)
ピグメント印画法とは、ピクトリアリズム(日本では芸術写真)の作家によって広く利用された技法で、画像のマチエール、明暗のグラデーションを写真家が自由にコントロールすることが可能だった。ゴム印画法、ブロムオイル、カーボン印画などがある。会いヘン表現力のある技法であるにも関わらず、現在日本ではこれらの技法を利用する作家はほとんどいない。技術が伝承されずに廃れてしまった技法なのである。銀塩も同じ運命をたどるのだろうか?
藤村氏は表現内容ではなく、表現方法に着目している。とりわけ、材質、技法といった部分である。白黒あるいは、緑がかったモノクロの写真を見ていると古くて、新しい不思議な印象を覚える。因みにいまどきの感性にはモノクロ写真を見て10人中8人が「モノクロのほうがきれい」なのだそうである。
銀塩は果たしてどうなるのか?アナログーデジタルの話題はいろいろな議論のされ方があるが、1つアナログ派がデジタル派に譲らない部分というのは、暗室で紙という物質に化学反応が起きて像が定着するという魔術的な時間―その場所・その時間でないと写真が生まれてこないというかけがえのなさーへの執着なのではないだろうか。写真の一回性の問題である。(デジカメでなくインスタントカメラがいいという若者も多い)
教育の問題を論じるのに、デジタルかアナログかの技術論ではなく、内容こそが問われるべきだという意見もあった。もっともなことである。しかし、メディア環境が変わればひとの感性も変わることが文明史は教えてくれる。技術・環境が感性をアフォードするということこそメディアリテラシーは教えるべきだと感じる。 「僕は彼らに会ったことがなく、写真でしかその姿を知らない。僕の生まれる前に、大人になる前には亡くなっているから。あまりに「巨匠」だから。学芸員という仕事につくのに、影響を受けたと思う。遠い存在を身近に感じたい。とりあえず巨匠だの、アーティストだの、肩書きを取っ払って写真のなかの彼らを見る。このオヤジたちはかなりキテる。僕は彼らから自由や美、新しい価値観を教わった。」 石田哲朗氏の前口上(「出品リスト」より) 藤村氏の見せ方とは対照的に、石田氏はあえてキャプションで見るものを惹きつけるプレゼン方法である。ファンキーで、ポップな語り口で鑑賞者と写真の距離はグッと近くなる。これには会場の学生からは「わが意を得たり」と膝を打ったに違いない。新日曜美術館的な写真鑑賞の然々あるべき枠組みからそう簡単には自由になれない年配者には「あなた、主体的な鑑賞してるの?」と挑発をしてくる。
キャプションが際立つことによって、写真の楽しみが増えると同時に、「解説するとそう見てしまう」「見る人と作品の相互創造に任せるべきだ」という声は当然聞こえてくる。美術館でのディスプレイも含めて、写真表現のバリエーションはまだまだ裾野がひろく、魅力的である。いずれにせよ、さまざまな見せ方、少し視点をズラすだけでこんなにものは違ってみえてくるんだということを写真美術館はどんどん提案してもらいたいし、そんな機運である。「ものの見方を育てる」ための環境づくりの大切さは2人のキュレーターが別々の語り口で語るとおりである。
問題は、われわれの問題意識にひきつければ、学校と美術館の連携である。何も実際に行くという意味ではない。点が線になるコラボのかたちが色々あるはずだ。「いい企画なのに誰も行かない」「全校生徒で団体見学したけど、『静かに』と生活指導に終始した」では困る。

屋代敏博氏の「ものの見方」はやはりユニークだ。屋代氏は自分が回転する前はモノを回転させていたそうである。レコードのターンテーブルに招き猫やらアジの干物やらマヨネーズやら、、、なぜそんなことをしたかといえば、「自分はなぜ物事をこんなに難しく考えるようになってしまったのか」それは「見るものが難しいからだ」、どんなものでも「回転させれば同じ形になる」という流れだそうだ。
少し視点をズラすだけで、ものは違って見えてくることを回転回を通じてわれわれに提示してくれた。
当研究所で今回の「ものの見方をどう育てるか」はずいぶん前から暖めていた企画だったのだが、期せずして「キュレーターズチョイス」展が直前に開催され、藤村・石田両氏から「せっかくだったら作品を見ながら」とひょうたんから駒のような幸運に恵まれた。東京都写真美術館の提示するキュレーション=ものの見方は、マスメディアとして影響力がある。そこから出てきた「キュレーターズチョイス」という発想であることに注目したい。今後さらにキュレーションが重視される時代である。個人で、数百もの音曲や画像を持ち歩く時代だからこそ、また同時に、表象文化が画一化、単純化、ブランド化、カワイイ化する時代だからこそ、美術館だけでなく、学校でも「キュレーション」について深く考えてみたい。
(中山周治)
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8月最後の土曜日、恵比寿の東京都写真美術館で「メディアリテラシーの学校2006夏季講習」が行われました。中村征夫写真展やルコントの映画に列を作る人々で大賑わいの会場は、我々にとっては初のアウェイ戦です。
今回は「写真」というメディアつながりで、回転する写真家 屋代敏博氏と写美のキュレーター 藤村里美氏 石田哲朗氏のコラボレーションだったのですが、第1部の回転ワークショップと第2部のキュレーターズトークのつながりが見えにくくて、人によって興味のウエイトが違っていることが如実になるという、むしろ面白い討議になったような気がしています。
第2部とその後の討議の模様はまた後ほど報告することにして、まずは第1部の回転回LIVE!!のレポートをお送りいたします。
まず、屋代さんからワークショップについて、ご自身のLIVEビデオを使っての説明を受ける。 
そして屋代さんが会場後方を指し示して、「あちらにいろいろな衣装やグッズがありますから、お好きなものを身につけていただいて、自分がどんな絵の具になって風景に溶け込むか考えて下さい」と言ったとたん、全員が動いて、衣装の置いてある大きな作業テーブルを取り囲むのだ。大人はノリがいい!難しい顔をしてサンタの帽子を被って青いマントを体に巻きつけている長身の男性、唐草模様のスカーフでほっかむりをしているうら若き女性、クールな衣装に色とりどりのガムテープを貼りまくって頭からトナカイの角を突き出している素敵なおばさま、笑顔、真剣な顔、笑顔、笑顔。
その状態のまま、創作室から列になって繰り出し、人でごった返すロビーを抜け、写美のエントランス、あの巨大な写真がずらっと並ぶスロープに点々と並んでいよいよ撮影開始だ。
屋代さんは、写真を撮る、撮られるその雰囲気を大事にしたいということで、敢えてクラシックな箱型のアナログカメラを使う。ものすごく綺麗な機械だ。この場所での回転は12秒間。回転する時間はその場所の光量で決まるのだ。
写美をめざす人々が、「なにこの集団?」という顔で通り過ぎていく。立ち止まる人もいる。笑う人もいる。衣装をつけてる我々は少し見られる快感を感じたりもする。鬼の角付毛糸の帽子が暑く我慢出来なくなる頃、準備完了。模擬回転をさっそく執り行う。まず、出来具合、配置具合を確かめるためにポラロイドを1枚撮る。一度回転回LIVE!!を体験して病み付きになった高校生2人がタイムキーパーをまめまめしく行っている。彼女らの「ヨーイ・・スタート」で一斉に回る老若男女たち。楽しい。「10、11、12 ストップ!」でほーっと脱力する。ポラの現像までの1分間は長い。早く見たい!「1分経ちました!」の声でゆっくりとシールを剥がす屋代さんの周りは人垣だ。「へーっ!」と「ふーん」の間のような声が上がる。その写真を参考にして、自分の立ち位置を動かしてみたり、綺麗な色が出るように作戦を立てたり。そして本番。この作品はしばらく経たないと見られないのがつらく楽しいところだ。
<撮影 小野悦子>
そのまま、場所を屋上に移して撮影をする。5階まで、あの素敵な衣装のまま、普段は入れない領域へと階段をひたすら登る。扉を開けると・・・そこは何の変哲もない屋上だ。これだけ無駄なスペースが手付かずで残されているなんて、ほんと回転回LIVEにとってラッキーなことだ。
閉ざされた空間で、少しだけ空に近くて、回転するのにたっぷりなスペースがある。右側で右回転、左側で左回転を今度は8秒間ずつ執り行う。屋代さんもお手製の回転ボードに乗って、赤い絵の具となって風景に溶け込んでいた。その様子は屋代さんのHPでご覧になれます。 (FILEのところを開いて見て下さい。)
(松田ユリ子)
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かながわメディアリテラシー研究所はセッション<表現と活動の場としての市民メディア>に参加します。
タイトル 「高校でメディアリテラシーをどう教えるか」
2006.9.9(土)
時間・場所については8/20頃にアップできると思います。
場所などの詳しい情報については「市民メディア全国交流集会http://siminmedia.jp/でご確認ください。
発表者
第1部 高橋恵美子(神奈川県高校司書) 第2部 鈴木佳光(神奈川県高校教諭) 第3部 中澤邦治(神奈川県高校教諭)
コメンテーター
坂本旬(法政大学・情報教育論) 小山紳一郎(財・神奈川県国際交流協会・情報サービス課)
「高校でメディアリテラシーをどう教えるか」
この発表は3部構成となっています。3人の発表者が映像・画像を交えて高校での実践報告をします。
2人の論客、坂本旬先生・小山紳一郎先生と参加者みなさん、発表者によるディスカッションの時間を設けています
どなたさまも気軽にご参加ください。
第1部 アメリカの情報リテラシー教育
アメリカの授業で、生徒が学校図書館で調べたことを基に社会参加・政治参加
第2部 CMを用いた授業
CMから見えてくる現代社会とは? 教科「現代社会」の授業でCMを用いた授業の実践報告です。CMを読み解くだけでなく、自分たちの手で作ってみることによって情報の送り手の事情がより理解できるということが実感できます。紙芝居というローテクを使っているところもポイントです。
第3部 高校で映画を撮る
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屋代敏博(写真家)のワークショップ「回転回LIVE!」
藤村里美・石田哲朗(東京都写真美術館)のキュレーターズ・トーク「ものの見方をどう育てるか」
来る8/26 13:00~ 東京都写真美術館にて開催されます。(詳しくは当ブログ、別ページを)
回転をめぐるアンソロジー募集
「回転」と言えば、みなさん何を思い出すでしょうか?
レコード、地球、バレエ、コマ遊び、、エピソードを添えてコメントに
話題を提供してもらえませんか!
ちなみに私の場合は、、、
トルコの旋回舞踏
13世紀トルコのメヴレヴィ教団の音楽を再現したという2枚組のCDを20年くらい前に六本木WAVEで買った。らせん状に旋回しながら集団で踊り、踊るうちにトリップし、神との合一に至るスーフィーの神秘的な音楽。これは買うしかないと、興奮状態で買ったのだが、内容はまったく覚えていない。中古CD屋に売ってしまった。買い戻したい。
高速回転のコマ
ずいぶん前に新聞の科学記事で確かに読んだ。超高速回転させたコマの実験で、右回転させた場合だけ、コマの重量が0.00何グラムか分からないが、とにかく軽くなることが判明したと。左回転ではなく、右回転だけというところにとても惹かれた。重力に抗うなんてロマンチックではないか。でも南半球なら逆だろうか。定説にはなったという話はその後聞いたことがない。
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2006.8.26(土) もうすぐ!!
1時間目 13:10~15:00
回転回LIVE!~屋代さんと一緒に回ってみませんか~
■屋代敏博氏(写真家)のワークショップ
地球が回る、電子が回る、山手線が回る、そして屋代さんも回る。
えっ?何で?あなたも回ればわかります。目からウロコが飛び散ります。
ワークショップ参加者は開場時間に必ずお集まりください。別会場に移動します。定員は30名ですが、ご来場いただいた方がなるべく全員参加できるようにいたします。
2時間目 15:00~16:30
ものの見方をどう育てるか~<高校×美術館>の可能性
■東京都写真美術館キュレーター・トークショー
同館キュレーターズチョイス展で活躍した藤村里美さん、石田哲朗さんによるキュレーターズトーク。
プロの目のつけどころ、編集作法について、実物をまじえながら語っていただきます。
いったい美術館というメディアはどんなものの見方を提示しているのだろうか。
一方、われわれはどんなものの見方を志向しているのだろうか。お二人のトークの後に、屋代さんも加わってもらい、質疑応答、意見交換をたっぷりやります。
2006年8月26日(土)13:00~17:00 開場13:00
東京都写真美術館 創作室 http://www.syabi.com
JR山手線恵比寿駅東口より動く歩道で徒歩7分
恵比寿ガーデンプレイス内
施設には専用駐車場はありません。お車でご来館の際は恵比寿ガーデンプレイス内の駐車場をご利用ください。
℡03-3280-0099
主催:かながわメディアリテラシー研究所
協力:東京都写真美術館
PHaT PHOTO
お問い合わせ kmnpas6@yahoo.co.jp かながわメディアリテラシー研究所
<ご案内>
当研究所主催「メディアリテラシーの学校」も3回目を迎えました。今回は写真というメディアをもとにイメージリテラシーをみなさんとともに考えてみましょう。
写真に興味ある方はもちろん、アート教育、メディア教育に関心にあるかたは是非ご来場ください。
そんな関心がない向きにも、「屋代敏博(写真家)のワークショップ」はとっても楽しめ、アッと驚く企画です。
楽しみつつ、ひととひとのつながり、写真と実世界のつながり、写真家と被写体のつながり、過去と未来のつながり、時間と空間のつながり、など、ものーひとーことのつながりについて考えさせられます。
「東京都写真美術館(キュレーター)トークショー」も豪華な仕掛けが用意されています。
さまざまなイメージで溢れるメディア環境のなか、美術館というメディア、学校というメディアに何ができるのでしょうか。キュレーターの話が聞ける絶好のチャンスです。話の射程は限りなくひろいといえばひろい。そもそも、日本人はどんなものを見たがってきたのか、美術館で何を見たがってきたのか、、、
今回も質疑応答、意見交換の時間をたっぷりとります。屋代さん、藤村さん、石田さんにこの際きいてみたいとことをご用意ください。
タイトルに<高校×美術館>の可能性とありますが、高校に話題を限定しません。学校と美術館のコラボ、学校と写真家のコラボ、学校から大きくはみ出るのもまたよし、です。
■□■□■□■□
高校で行われた前回の「回転回LIVE!」の参加者の感想より(一部抜粋)
今まで僕は写真というものはその場その場の一瞬のシーンをとらえるものだと思っていましたが、こういうやり方もあるんだなぁと衝撃をうけました。
人があんな風にうつる事がわかり、アートの世界って何でもOKなのだと思いました。
映画「マスク」の変身シーンのようでした。
不思議な発想をもったひとだなと思いました。何でこんな写真をとろうと思ったんだろう、、、。
回転回ってどんなものかわからなかったけど、実際撮ってもらって写真を見てとてもおどろいた。カメラにも興味がわうたし、写真家っていう仕事にも興味がもてた。
笑いが止まらなかった。
とても不思議な体験ができて楽しかったです。
あの、、、先生は絵の具というか、ストレッチマンだった。
なんでこんなことをするんですか?
できた写真を見て、自分の身が軽くなったような気がした。
本当にあの人は有名なカメラマンさんなのでしょうか。
■□■□■□■□
屋代敏博 プロフィール http://www.kaitenkai.com/
「空間シリーズせんとう(銭湯)」、「太陽と鉄塔」、「回転回」とユニークかつ、コンセプチュアルな写真
表現に挑戦し続けている。
とくに、「回転回」は観客参加型の「回転回LIVE」というアートプロジェクトへと進化。
「フィリップモリスアワード1998」受賞、「アルル国際写真展」「横浜トリエンナーレ2005」
「OMI国際アートセンター スカルプチャーウィーク2006」などに出展。
また、最近では学校から「回転回LIVE」のオファーを受け、教育現場に新風を吹き込んでいる。
お詫び チラシに」「横浜トリエンナーレ2006」とあったのは「横浜トリエンナーレ2005」の誤りでした。
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3月21日(火)午後 新百合トウェンティワンビルで、かながわメディアリテラシー研究所第2回目のイベント「メディアリテラシーの学校:春期講習」が行われました。当日は、40人の会場に椅子を追加するほどの盛況で、講師のお二人にはとても時間内に答えきれない程の多くの、また示唆に飛んだ質問が寄せられました。以下では報告に加えて、時間内にご紹介出来なかったみなさまからのご質問をなるべく忠実に再現することにいたします。
◆1時間目「認知心理学から『読書』を考える」
講師:村田夏子氏
「読んで理解する」とはどういうことなのかについて、 「テキストベース」と「状況モデル」というkintshの理論を使って説明がなされました。「まんがを読むのは“簡単”か?」という刺激的な問いかけに会場は静かに沸いていました。むしろ「記号の読み」能力が問われるまんがの読みの奥深さを、具体的な例を挙げて示していただきました。そして、文字に限らず、書かれた情報を読み解くことについて重要な2つポイントが提示されました。1つは「読書を含めた経験の重要性」、もう1つは「読書体験の共有」です。特に後者における手立ての1つとしての「読みにおけるモニタリングのサポート」については、具体的な取り組みが議論できそうな部分でもあり、フロアの関心を集めていました。
【1時間目の内容に対する質問】
■読解の中では、共感や感情はどのような位置づけにありますか?例えば、新聞の論調といわれるもの、市民団体が一定の目的を持って何かを訴えかける文章では感情がうまれてくると思います。これはやはり個人の経験に左右される状況モデルに含まれるものなのでしょうか?それとも文章を技術的に構成するテキストの内容によることになるのでしょうか?
■文学という表現自体が(そしてまんがもその後を追って)表現としての活力を失っていきつつあるとすれば、読書の重要性というものも一律には評価できないのではないでしょうか。/「体験」さえもが企業によってパッケージ商品化されつつある現代において、意味ある体験をするためにはどの様な点に注意すべきでしょうか。
■状況モデルが経験によって発達するということは生まれつきそのベクトルは「読む」という方向に向いているはず。それが読めなくなるというのはどこかでそのベクトルの向きが変わるということだと思います。それはいつどうしてでしょう?「状況」には読み手の「状況」というのも重要だと思うのですが、ここで言う状況モデルと読み手の状況はどういう関係?
■村田先生の本に松苗さんの分析があったのですが、ああいうものをあつめたテキストとか作らないのでしょうか?/読書体験の共有となると、また昔の伝統的な国語の授業に戻るのでしょうか? 私は中学校教師ですが火曜日の授業ではワンピの今週、金曜日はバガボンドのこれからについて話し合うのですが、これも共有っていっていいのでしょうか?/作文の型の問題・・・中学生だと、「言いたいことはぁ?」と言うと「ないでーす」と言われてしまうのも多く、型主義者でやってしまったりもするのですが(文章をいっぱい書けると親御さんもよろこんでくれたりするのです。)読みも「変化のポイントを見つけろ!」とか受験対策してしまったりして、読みの絶対自由を確保するアイデアとかありますか?あ、誤読ではなくって・・・。/ハチクロについてどう思いますか?(一昨日からいっき読みしました。)来年度の選択国語で授業化したいのですが・・・これはしつもんではないですね。
■ 画面と画面の間を推論する力が不足している場合に、どのようなアドバイスがよいか。(創造力をつけるためには?)/レポートが切り貼りのみで、自分の言いたいことが見つけられない生徒に、どのようなアドバイスが有効か?/モニタリングのサポートの具体的方法は?
■ 最近の学生は、発表にしてもレポートにしても、書籍やネットなどから情報をコピー&ペーストするのみで、というお話。どんなものでもよいということならば、必ず毎日、PCのメールや携帯のメールを読んでいる。メールを書ける(打てる)ということは状況モデルがあり、応用させているからだと思うがどう考えますか?メールを見るということは、読書とはなりえないのか?
■ 絵本についての認知心理学的おはなしをもっとしてほしいです。ex.絵本から本への移行(子どもの成長にともなう変化)/まんがばかり読んでいた小学生が、中学生になったらよく本を読む子になっていったという時の認知心理学的説明をおききしたいです。
■コマとコマの間、シーンとシーンの間の推論ができない学生が増えたとありますが、文章テクストでも行間が読めない学生も増えているでしょう。今、PISA型読解を育もうと文科省もやっきになって対策をたてていますが、これまで日本の教育は、推論、メタ的視点、クリティカルシンキングを育んでこなかったことが一因でしょう。この「推論」に関する研究ではどんなものがあるのかを教えてください。
◆ 2時間目 「“visual literacy”を母語学習の系統性から考える」
講師:奥泉香氏
今や学習者がとり巻かれているテクストは、単に文字だけとか映像だけということではなく、文字、映像、音声などが高度に複合化されたテクストだという現状があります。その事を踏まえて、奥泉氏は、特に母語教育において新たに意識すべき学習内容として「映像+文字テクストの読み解き発信」と「文字テクストにおける視覚的側面の読み解き発信」の2つを提示しました。そうした学習内容をすでに系統的に母語学習のカリキュラムに組み込んでいる西オーストラリア州などの例を具体的に紹介していただきました。そして、これまで奥泉氏ご自身がカリキュラムを研究し、実際に授業も観察してこられた国々に共通する母語学習における“visual literacy”の系統性が4段階で示されました。
第1段階:構成要素の意識化/経験を用いた解釈
第2段階:映像分析技術と効果/テクストの種類や特徴
第3段階:対象視聴者や意図との関係で吟味・評価
第4段階:社会・文化的な文脈、背景も含めた批評
日本でも第1段階と第2段階は単発的には行われているが、第3段階、第4段階が重要で、そこに至るためにも学習内容の系統的見通しの必要性があることが強調されました。
1時間目の内容と激しく呼応する部分があり、さらにセンダックの『かいじゅうたちのいるところ』や手塚治虫のマンガでフレームの使い方を具体的に見せていただくなど魅力満載で、もっとゆっくり話が聞きたいとの声がフロアからも多く聞かれました。
【2時間目の内容に対する質問】
■ビジュアルな表現や読み取りはむしろ日本人の得意な領域であったのではないかと思うが、それが新しい教育の目標になるということは、従来型の日本的コミュニケーションの枠を超えた読みとりの能力が求められているということになるのでしょうか。
■カリキュラム改訂の説明で「諸外国」=イギリス、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、英語圏だけを「諸外国」と言い換えてよいのだろうか?(批評をひき出すためのしかけだろうか? アングロ・サクソンonly → 外国なのか?)英語圏以外では、どのような状況なのだろうか? また、民族・文化・マイノリティ(たとえば黒人、ヒスパニック、アボリジニー、ムスリム、アメリカやイギリスでは、少数派ではなくなっているけど)に対して、メディアリテラシーは有効なのか?
■看図作文についてどう思いますか?/ギャラリートークとか、評価むずかしいんですけど諸外国でどうやってますか?
■日本はこれからということで、遅れているのか?実際のカリキュラムとして整うのはいつ頃になるのか?
■紹介された各国にはvisual literacyの導入以前に、状況論的学習論に基づく学習者の状況に目を向け、その状況に埋めこまれた意味の解釈を学習して考える姿勢があったように思います。その点が日本ではたいへん心もとないと思うのですが、その時に提案された系統の見直しの導入の留意点はどのような点だと考えますか。
◆ 3時間目 討議:「学校教育にメディアリテラシーをどう組み込むか?-広い意味での『読むこと』をてがかりに」
発言をして下さった方々の興味関心は、大きく3つに分けられたと思われます。「読書教育」「国語教育」「メディアリテラシー教育」の3つです。これをどれか一つの視点、例えば「メディアリテラシー教育」の視点で語り合うには時間が短く司会は非力、そしてフロアが熱かった!それでも重要な論点はいくつか明らかになったと思われます。
1.メディアリテラシー教育は必要か?必要だとしたら何故必要か?
・ 日本ではビジュアルな表現や読み取りは得意だったが、系統的に教えて来なかった。そしてもともと批判力はあまりなかった。論理的な思考も得意ではなかった。だから、系統だったメディアリテラシー教育が改めて必要なのでは?
・ 多様な考え方を知ることが何よりも必要だ。それは「読みの共有化」のように学校教育の中でこそ可能な学習で得られるものだと思う。
2.読書をどうする?
・ 複合的なメディアを読み解くことも必要だが、本という抽象性が高く明示的でないものを読み解くことをどう「教える」かも重要だ。
・ 今まで「言わずもがな」のハイコンテクスト文化に浸ってきた人はずいぶん損をしてしまっているのでは?「言わずもがな」を読む訓練が必要になって、共有出来るのは「言葉」しかないことに気付いた時に本を読む力はどうしても必要だ。
・ 「読みにおけるモニタリングのサポート」を有効に行うためには、教師だけではなく、学校図書館の司書のような存在が是非とも必要だ。
3.日本の国語教育の問題
・ 「言いたい事を言えない経験」を子どもが沢山出来る環境が必要。伝え合うことの訓練のために。
・ 「テキストベース」を作ってしまえば終わりではなく「状況モデル」を作るまでの学習にする必要があるのでは?
【感想】
●日本でメディアリテラシーが根づかないのは、日本語で、日本文化・社会を背景として、教育されているからではないかと思う。
絵ときの文化 → 日本にも、むかし地獄絵を“読み解く”教育があったと思う。紙芝居もリテラシーかなあー。
メディアリテラシーにも2つの領域があると思う。
1.テキストベース-「技術」への理解
マンガ → 線、形、色合い
映画 → カメラアングル、カキワリ、光 など
2.状況モデル-「内容」
文化・社会・心情への理解
●遠く茨城の那珂市(水戸の上)から来てよかったです!村田先生の本のファンだったので、ただで(!)講演が聴けたのがよかったです。さらに奥泉先生のお話は言語教育とアートの融合(大ゲサ!)をひょーぼーしている私としてはとてもとても参考になりました。校長におこられながらも「絵語り」とか勝手に授業を創ってやってる身としては世界レベルではおいらのほうが正解!って安心(←誤読だ!?)しました。あ、あと3時間目の司会の先生ごくろうさまでした。水戸の国語のあつまりはさらにもっとだまっててつまらんですが、都会のフロアの先生方すごいですねえ・・・。ちなみに司会の時、私は近くの机の人と5分とか話させてから、意見交換をさせます。するとしゃべれない人もしゃべれるようになりますね。くらくもなんないし。あ、自分の、どうやったらもっと読むようになるか?という問いに対して、自分は、あるテーマをしぼっての読書紹介(人生とか賢治先生とか)俳句、短歌、詩の多読→鑑賞の発表会(佐藤通雅とかみつけんですよ、中学生が・・・。あと批評精神については、ツッコミ作文(宇佐美寛先生のじっせんをかなりパクッたもの)、テストリテラシー(この受験問題のここがダメ!)ってのをやってますけど校長に叱られて泣かされました。本日は本当にありがとうございました。
●途中からしか参加できなくてとても残念でしたが、メディアリテラシーが学校教育に必要なのかどちらかなどについていろいろな方の意見が聞けてとても勉強になりました。また参加できる機会があったら生きたいと思っています。ありがとうございました。
●講義を少なめにしてdiscussionの時間を多めにとった方がいいと思いました。「国語の授業が限界・・・」とおっしゃる、ああいう先生の声に応援していける研究会になってほしいかな。皆さん興味の最終的なところは「学校で」だと思うので。最後、学校の先生の話がたくさん出てきて安心したかも。
●3時間目があることが非常によかったと思います。出た問題点を継続的に組みこんで下さい。
●とても勉強になりました。今までの自分の授業の内容を先生方のお話から振り返ってみて、やれていたこと、まだできていないこと、気づきもしていなかった事などがかなりはっきりしてきました。今年度、国語表現Ⅱを担当して、そこに「メディアリテラシー」の単元があり、(最初はそれほど興味が湧かなかったのですが)教材研究をしていくにつれ、その重要性に気付きました。十分な教材研究ができなくて、今年はサラッと扱ってしまいましたが、来年はじっくりと系統立ててやってみたいと思いました。
●タイムリーな話題でしたので興味深く伺えました。ただ、参加者の文化的ベースもいろいろで、何をどう共有化していくかが難しかったですネ。「言語」についての共有化すること、共有化することが批判する力をつけることなど、改めて考えていきたいと思います。
●リテラシーという言葉がさかんに使われるようになった今、平時の教育改革中の日本が改革の速度を早め、リテラシー教育を取り込んで行くことができればいいなあと思う。
●とてもおもしろかったです。メディアリテラシーの実践を進めていると、必ず状況論的な学習のとらえを認めざるを得なくなります。そのことにいろいろな人が気づいているということを改めて確認できました。
●討論の時間にかなり理解が深まった。やはり「共有」することは大切だと思う。講義だけでも面白いが、3時間目が設定してあったことは大変よかった。
●とても興味深いお話でよかったです。教育政策や学校文化についても深められるとよかったです。
●1時間目 非常に興味深いものでした。ソフトな語り口も魅力的で勉強になりました。2時間目 むずかしい内容でした。西オーストラリアカリキュラムのフレームワークの訳の説明を詳しくして欲しかった。3時間目 大変有意義でした。ありがとうございました。
(文責 松田ユリ子)
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橋爪さんの「みんな空でつながっている」に市民メディアの可能性について考えさせられた。
私的なテイストの演出が上手かった。演出なんて言葉をつかうと怒られるだろうか?
マスメディアが大量に送り出す作品が「本格」であるという事実を前提に、「破格」を出さないと表現としては面白くない、というか「本格」の縮小再生産では意味がない。というところで、今井さんが講演会場に入退場するシーンを思い出してみよう。
逆光だかなんかでカメラの光の補正が上手くいかず、見苦しいというか、素人っぽいつくりのシーンだ。
一般人が撮ると何かの拍子に偶然あんなミスをやってしまう。
そして、その素人っぽさを敢えて入れる編集は、確信犯(言葉悪くてゴメン)、すなわち、私的なテイストの演出なんだろうと私は勝手に思っている。私的なテイストとは、文学でいえば私小説にあたるのかな?たしかに映像の色調不具合自体は偶然なんだろう。インタビュー中の極私的つぶやきもふと口をついてでてきたのであろう。マスメディアが絶対に切り捨てるところ、完成度の高さを求めて作りこんであるプロの作品が必要としないところである。そんなところにこそ宿る自然とか真理を大切にして、さりげなくポンと前にだす屈託のなさが気持ちいい。
まさに破格を感じる。いつか破格の作法が本格になるのであろうか。
大きな物語じゃなくて小さな物語がたくさんあるんだ、というポストモダン的な状況に適っているのかも知れない。そうじゃなくて、私小説ならぬ私ビデオ、男手じゃなくて女手の生活感、グルーブ感がいいのかも知れない。あるいは<自然><自然らしさ>に対する徹底的なこだわりなのかも知れない。
自己表現(ひとに見てもらう)と自己表出(ひとは関係ない)のどっちがいいかって議論も勿論あるわけなんだけど、自己表出のインパクトの強さってのは作り込まれた表現がまねできないものなんだろう。
「『冬の日』を見る」で話題になっていた「わび」というのが、何の演出も施さないような、自然の境地だったとすれば、風来坊芭蕉がデジタルビデオを持って旅に出たら光の補正なんか(周到に?)しないんだろう。
エンディングが歌でいかにもなんだけど、なんか日記風味で後味がさわやかだった。
とここまで書いて、へたに作りこんだ文しか書けないことに気づく自分、逆立ちしても橋爪さんにかなわない。
(中山)
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「メディアリテラシーの学校」無事終了しました。
ゲストスピーカーをはじめ、ご来場いただきましたみなさんに感謝します。
今回は3本立てでした。
マスメディア・市民メディア・学校~それぞれの立場でのメディアリテラシー
に関わる実践を検証し、さらにメディアに対する理解を深めようではないか!
ということだったのですが、
参加者のみなさんはそれぞれどんな感想をもたれたでしょうか。
忌憚のない意見、感想を下(↓コメント)にお寄せください。
2月にもイヴェントを打つ予定ですが、それに向けての提言もあればお願いします。
またお会いしましょう!では、よいお年を?!
中山
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いよいよ開催が近づいてきました。
改めてご案内させていただきます。
「メディアリテラシーの学校」夏期講習
当研究所主催 夏のイベントのお知らせ
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「学校でメディアリテラシーをどう教えるか」
8月27日「メディアリテラシー夏の学校」の3時間目・討論会
「どう教えるか」をみなさんで知恵を出し合って探っていきたいわけである。
そもそも漠とした「メディアリテラシー」に関して、「何を教えるのか」、その教授すべき内容、身につけさせるべき技能とは、という具体的な話になっていくのであろう。
しかし、具体的な話に入る前に「待った」がかかってもおかしくはない。大切なのは「何を」ではなく「どう」だけであって、教えるべき内容が始めにありきではない。このことこそがメディアリテラシーたる所以である、という議論も至極真っ当だからだ。
「暗黙知」の研究者マイケル・ポラニーは科学的な発見は対象知(knowing what)によって起こるのではなく方法知(knowing how)によって起こることを証明しようとした。つまり、発見はどうやったらある対象に近づけるかを探るなかで、不意に思いがけずぶつかるというかたちでしかありえない、というのだ。
ポラニーは歴史上の大発見の起こるプロセスを研究したわけだが、このプロセスはそのままメディアリテラシーに援用すると、個々のメディアアウェアネスは、方法知(knowing how)の模索の先にしかないように思われるわけである。
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当研究所主催 夏のイベントのお知らせ
日時 : 2005年8月27日(土)
午後1時30分~5時 <開場午後1時>
場所 : 川崎市麻生市民館 第1会議室 (小田急線新百合ヶ丘北口徒歩2分)
内容 :
「メディアリテラシーの学校:夏期講習」時間割
1時間目 13:30~14:30 『報道番組のつくり方』
講師:小林和男氏
「はい!テレビ朝日です。」プロデューサー
内容:報道番組といっても、ニュースなのかドキュメンタリー番組
なのかではつくり方がまるで違う。いったいどう違うのか?
具体的な番組制作のプロセスとは? など
2時間目 14:40~15:40 『市民メディアの可能性』
講師:下村健一氏
元TBSテレビアナウンサー(兼ディレクター)/TBSラジオ「下村健一の
眼のツケドコロ」(ナビゲータ)/TBSテレビ『みのもんたのサタデーず
ばッと』内「ずばッとリポート」(取材キャスター)
内容:「市民メディア」の、「プロ」メディアに勝る魅力とは何か?
「市民メディア」の活動自体が、メディアリテラシーを体得する
最高の学校である理由とは? など
3時間目 15:50~16:50
討議:「学校でメディアリテラシーをどう教えるか」
内容:学校という装置を使っていかにメディアリテラシーを伝え
考えていくのか? カリキュラムはどうする? など
入場無料 予約不要です。プロのメディア、ノンプロのメディアそれぞれの専門家の講義を踏まえて、学校という装置を使ってそれらをどう伝え考えていくか、参加者全員で討議しましょう。
お問い合わせ kmnpas6@yahoo.co.jp
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